四方森ブログ

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匹見町の概要(参考資料)

ウッドパーク★ 以下は、匹見町の元益田農林高校匹見分校跡地にあるウッドパークの資料を画像からOCRで取り込んだものですので、読みにくいところがあるかも知れません。)

 匹見町の概要
■ 面 積/300.08km2
■ 人 口/1,891人(平成13年9月)
■ 人口密度/6. 6人/km2
■ 町の木/ヒキミスキ
  町内の西中国山地に古くから自生するスギを「ヒキミスギ」と呼んでいます。風雲に耐えて大空にまっすぐのび、どっしりとした風格を漂わせ、匹見町もそうあって欲しいという願望を込めて町の木に選定されました。
■ 町の概要/
匹見町 匹見町は、島根県の西南端に位置し、広島県と山□県の県境こ接しています。日本海と瀬戸内海両方の気候の影響を受けているため樹種が豊富で、これらの木々に覆われた山や森が、四季折々に美しい装いの変化を見せてくれます。
 町内にある西中国山地国定公園・匹見峡は、自然がゆっくりと時間をかけて創りあげた名峡で、表、浦、奥匹見峡の3つの渓谷からなり、中国地方でも数少ない秘境として知られています。町内には旧石器、縄文、弥生、古墳などの各時代の遺跡が数多く見られ、古くから木と人間のかかわりがあったことが何われます。また、裏匹見峡の入口に湧く匹見峡温泉は、優れた効能とまろやかなお湯で人気を集めています。

 森の歴史 

■ 広葉樹林と匹見町


 花をつけて実を結び種子で増える種子植物は、全国で約五千種あるといわれているが、その半数近くの二千五商権が中国山地を中心として自生している。これは全国的に見ても珍しいことで、中国山塊がいかに多くの植物を育てているのかということがうかがえる。また種類ばかりでなく古い時代つまり胞子で増殖する杉や松といった原始植物も多い。代表的なメタセコイヤなど数こそ少ないが有名である。
 こうした植物の分布、自生のカギは過去の地形、気候によって位置付けられ分化、分布を広げ、又今日までも生き残っているわけである。植物たちのルーツは様々ではあるが、これらの櫨物たちが複雑に入り組んで、豊かな自然を作り出してもいる。
 南北に長い中国地方の脊梁山地は、多面の気象立地を有している。気温が低く涼しい上に南からの湿った空気で雨を降らし、冬には積雪が多いことである。こうした植物にとって好条件で、種の多い特色付けの要因は、大別し列島か過去大陸と陸続きであった頃大陸回りで日本列島へ分布を広げてきた,植物だもの名残、つまり大陸にルーツをもつ植物である。
 一方北方系にルーッをもつ植物は、かつて氷河期に北から日本列島を南へと分布を広げ、その後、氷河が去って暖かくなった後もそのままそこで生き続けた植物たちで中国山地は北方系の南限あると言える。これらと逆に北限となっている南方系の植物も少なくない。つま力南から北へ公布を広げてきた南方にルーツをもづ植物たちも、あの九州などに多い照葉樹の仲間はその一部と言える。
 もう一つのルーツ北方系の植物でありながら特に中国山地は北陸などと並んで雪国の植物があげられる,これらは、日本海に面した北陸などの豪雪地帯で生まれた日本海要素と呼ぱれている植物の分布であり、ユズリ八やハイイヌガヤなど高木は少ないが、日本海要素の西南限といわれる。このよウにして、中国山地には四方からの異なった植物分布か一同にして分布するという日本でも珍しい地域と言える。
 このように樹種が多いぱかりでなく、広葉樹林が多い上に花をつけ夷のなる木々が生い茂っていたから、先人は元より縄文の人々がここで生活を始めただわけである。匹見は中国山系中、最も多種にわたる樹木があることで知られている。

■ 用材・薪炭の搬出による大繁盛期

 明示二七、八年ごろから五咀山・広見を中心に枕本に使用する栗厚木の伐採が始まり、大阪の業者が多数の作業員をともなって活躍した。回じころ広見道路の改修工事も行なわれていたが、その請負人のなかには、好景気に乗じて作業員のための酒造りを営む一方、百貨店まで経営する者もいた。日用品の全てを広島から仕入れため、山奥にありながら匹見は益田よりも流行が早く風習も派手でめったという。そのころ山根地区には次第に家並みも増えて、匹見町建設のいとぐちをなしていた。
 かくして大正期に入ると、製炭・枕木・木材等の需要景気にあおられて芸妓の姿なども見え、大正末期の一時期にはその数三〇名にも及んだ。広見対岸の正下地などは匹見銀座とさえ呼ばれたという。当地での森林の伐採は、明治一三年に赤谷山の巨杉四千本を六七〇円で売却したのに始まり、以後各地区の森林が次々と売却されることになっていった。材木は匹見川を筏に組んで高津に出したが、急流の多いむつかしい地形を流すのは困難をきわめる作業であった。筏流しの作業員は芸州、紀州、土佐の人が多かった。
 策動模型明治も中期以降になると荷馬車の活躍が始まって、伐採が盛大に行なわれるようになったのはこのおかげであるといえるが、大正末期には製炭が大いに栄えたために、もはや荷馬車だけでは間に合わなくなってきた。これに代わる輸送機関として、大正一二年には延長一六、七マイルにも及ぶ索道(架線)が完成。エ費七五〇万円は巨額であるが、杉七万本で優にまかなえる額であった。
 この頃には、三〇〇〇町歩にも及ぶ当町最大の広見の大森林もべニヤ材として売却されて、これらの伐採や植林の作業員代、さらには索道輸送などによって、地元や付近の住民までもが大いに潤うこととなった。索道の輸送能力は一時間に10トン。馬車で二日の送程を五時間で足りた。貨物は木炭と材木にとどまらず、穀類、鮮魚、家具、肥料などのあらゆるものが扱われ、しかも運賃は馬車の半額。陸運をきわめたのも自然であった。昭和に入るど製材所の活動が盛んとなって、紡績用器具や家具、さらにはスキー板などいっさいの木製品の製造を行なった,それらの製品の評判は高く、阪神市場ばかりか遠くインドや英国、中国にまで送り出された。木工の廃品で生産される木炭や、鋸屑による練炭までもがお金に変わった,益田益ではこれらのために月八〇の貨車が動いていた。
 これら木炭と用材を合わせた山林からの収入は膨大で、山林資源ある限り前途は洋々と、昭和三〇年頃までの町は明るい表情に満ちていた。

■ 暮しの変化、外材輸入、豪雪などによる人口流出の時代

 匹見町民にとって生活の支えであった薪炭の需要は、家庭燃料が石油やガスに移りはじめた頃から斜陽化をたどりはじめて、昭和三五年頃になると極度に衰退していった。
 また木材は、架線とチェンソーの威力によって当町も銀行が支店を設けるほどの景気で賑っていたが、これまた三七、八年頃には伐りつくされて山はさびれていった。木材の高騰と、都市部の爆発的な需要をまかなうだけの供給力がないことも相まって、この頃から外材輸入が激増し、これが内地材の価格を頭打ちにした。
 外材ショックである。これらにとどめをさしたのが三八年の豪雪である。一月二四日には、一夜にして2mをこえる雪が降った。雪は山仕事をうばい炭ガマを壊し、雪どけ水は田畑の仕事さえもうばって、おまけに冷害がおそった。それは、日本列島の農山村に共通した構造的な変化であって、なかでも中国山地では激しい人口の流出が目立った。昭和三五年から五年間に人口が1〇%も減った市町村が全国で900。うち中国地方は160。さらに、20%以上の激減をみたところが18あって、そのほとんどが中国地方の村だった。匹見町は26.9%にのぼっている。離村を踏み止まった者には、道路や水路の管理など種々の地元負担が増大した。広見地区など自家発電の維持管理が深刻で、これが一層離村に拍車をかけることにもなった。
 日本列島の高度経済成長期、都市が若者の労働力を吸収し、都市型の消費物資と気分が山村を巻き込んでいった。農村の現実とそれとのギャップがさらに離村をさそい、過疎化は一層進行した。

■ 椀づくり

 匹見町では、造林事業を実施するなど林業の振興に積極的に取り組んでいるが、木材価格の低迷や外材の輸入などによってもうひとつ成果が上がらず、若い人たちは山に見切りをつけて都会に出るようになり過疎化が進んだ。ところが残された人々は「過疎になったら食える」と発想転換をやったのである。町を覆っていた広葉樹林は、ほんどがパルプなどの原料として切り出されたが、それでもな山内には有り余る広葉樹が残されている。種類も豊富で、樹種旧 ハをいわれている・これらの木を伐採して売るのでなく、椀を加工して売れば高く売れて町も潤い、八千人の人□が二千人になった今、これだけの人数なら何とか山で食っていけるーーこう考えた人々は、まず「第三林業開発グループ」という組合を作り、広葉樹から椀を作る研究に取り組んだのである。その結果、今では、101種の樹から、それぞれに個性のある椀を製造して全国に販売し高い評価を得るようになった。
 生木で作った成型のあと「プレポリマー樹脂」という新しい木固め材を使って、ひびが入りやすく、カビがつきやすく、虫のつきやすい木を樹脂強化し、熱い湯で洗っても大丈夫な強い椀に仕上げてある。
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